【働く天使ママインタビュー】#11 mitsukimamaさん《前編》

様々な業界・職種で働く天使ママ達が、どんなことを感じ・悩み、気づきを得て歩んできたか、今まさに歩んでいるのか。働く天使ママの体験談をiKizukuがインタビューしてご紹介します。

今回は、管理職として働きながら死産を経験されたmitsukimamaさんのエピソード《前編》です。


《#11 mitsukimamaさん》

【プロフィール】

mitsukimamaさん(東京在住/30代)

・お仕事:経験時は広告業界の営業職(中小企業)

・雇用形態:正社員

・ご経験: 2018年9月、第二子である長女を21週6日で死産

・Instagramアカウント:mitsuki_255g



1.あなたのお仕事について教えてください

  経験時は広告業界の営業職(中小企業)をしていました。死産後も同じ営業で復職し、半年後人事総務へ異動しました。死産から3年後に転職し、現在はベンチャー企業のプロジェクトマネージャーを務めています。

<当時>
   新卒で入社した会社で自部署を持ち、企画営業提案から現場まで幅広く対応していました。1人目の産休育休から戻って3年。子育てしながらの仕事のペースもつかめ、マネージャーとして仕事もやりがいを感じ、部下の成長やチーム・会社の成長を支えたいという気持ちでガッツリ働いていました。

<現在>
  30人程度のベンチャー企業で前職経験を活かして働いています(インタビュー時は育休中)。



2.あなたのご経験について差し支えない範囲で教えてください。

   第二子である長女の妊娠にて、20週の妊婦健診で胎児の発育不全や心疾患を指摘され、大きな病院での精密エコーの後、心疾患の他いくつかの疾患が見つかりました。それらを総じて、18トリソミーと疑われました。確定検査(羊水検査)をするには21週を過ぎてしまうため、翌日までに妊娠を継続するか、諦めるか決めるよう宣告されました。考える時間が1日もない中、できる限りのことを調べ、夫婦で話し合い、泣く泣く妊娠継続を諦めました。翌日から入院し、人工的に陣痛を起こし、死産となりました。

精密エコーの後医師から説明された時の用紙



3.ご経験されたときのお気持ちを教えて下さい。

  なんで私たちの子が、、という気持ちでした。染色体異常の話を先生にされたときから、これはドラマの世界では?という感覚に。前年に初期流産もしており、年齢的にも限界かなという中での妊娠でとても嬉しかったのに一気にどん底に落とされました。

  安定期に入り、部員にも妊娠を伝えたあと、週末にイベントの仕事も控えフル稼働の予定でしたが、急遽娘の疾患を指摘され、そのまま入院、出産処置となりました。たくさん抱えていた案件も週末の現場対応も、無責任だけど、全て中途半端のまま投げ出さざるを得ない状況でした。誰とも話したくなかったけれど、当時の上司にだけ状況を連絡し、病室のベッドの上で引き継ぎのまとめをし、乱暴に全てをお願いしてしまいました。それでも仕事が心配で各所に細々と指示メールを送ったり確認したり、やり残した引き継ぐほどでもない仕事をこなしていました。心はぐちゃぐちゃだったはずだけど、仕事のことを考えると少し頭はスッキリしていたと思います。

  その時は、産んだらすぐまた仕事に戻ろうと思っていました。産後8週の産後休業が適用されると知ってからは、育てる赤ちゃんもいないのに8週も休まなければならないなんてなんて残酷な、という気持ちでした。でも、出産後気持ちは一変し、むしろ仕事をする気持ちがなくなりました

  人工死産=中絶です。日本で中絶が認められるのは、21週6日まで。その理由に胎児の異常は認められていません。そのため、私の場合「妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」を拡大解釈しての人工死産でした。本当にいいのかな。。と不安はありましたが、先生からは、同じような方も実際多くいるという事実を伝えられ、自分を納得させたことを覚えています。

  結局、今見えているものを基準に考えるしかありませんでした。3歳の長男との生活。それを一番に考えたとき、医療ケア児を育てる勇気が持てなかったのです。



4.ご経験後、精神的・身体的な影響はありましたか?

  喪失感、罪悪感、無気力、悲壮感、と色々ありました。しかし、上の子が3歳だったので、まだ全てを理解するには難しく、彼の前では泣かないように、笑顔でいようと動き回っていたので、気持ちも紛れました。

  実際は、「赤ちゃんのいない産休」というのが、あまりにも辛く抜け殻のような状態でした。自分のことで精一杯で、夫の気持ちを考えたり、聞いたり、寄り添ったり、までは気が回りませんでした。自分を守ること、正当化することでいっぱいいっぱいでした。

  母乳は薬を飲んだので出ませんでした。妊娠で緩んだ体を見ると悲しくなりましたが、産後の骨盤調整などには行く気になれず、身体的なセルフケアをするようなモチベーションもありませんでした。

  そんな中、インスタグラムで気持ちを吐き出すこと、共感してくれる仲間がいることにかなり救われました。また、夫には定期的に手紙を書きました。書くことが私にとってはグリーフワークでした。心のうち、頭のうちにある気持ちを吐き出すことができたので、自分を見失わずにすんだのだろうと、今では思います。



5.ご経験後、仕事はどの程度お休みされましたか?それはどのような制度でしたか?

  産後休業が適用されるとのことで、きっかり8週休みました。その間に上司と2回会って今後について話しました。

  1回目(死産から3週目くらい)はまだ気持ちが落ちていて、仕事のことを考えられるほど回復していないということを素直に伝えました

  2回目(復職前)はだいぶ前向きに、復職後にやりたいことを話しました。

  期の途中ということもあり、休む前と同じ部署・役職で復職しました。

棺に入れたお手紙と折り紙の花束



6.お休みの間、どのように過ごされていたか教えてください。

  いろんなフェーズがありました。

  最初はとにかく、喪失感で、同じ境遇の方のSNSを読み漁ったり、本を読んだり、コウノドリを見たり笑。その次は罪悪感。人工死産という判断が本当によかったのか、娘は本当に18トリソミーだったのか、という思いで、似たような症例や医師の見解を知りたくて、医師のブログや、論文などをネットリサーチをしました。その過程で、「グリーフワーク・グリーフケア」という言葉を知り、悲嘆のフェーズを知ることができ、いろんな気持ちがぐるぐるする中でも、「ああ、これはグリーフのせいだ。」とどこか冷静に見ている自分もいました。

  お骨になった娘を自宅に連れて帰った日には、なんだか家の中の古いもの、汚いもの全てを取り替えたくなりました。新生児のいる暮らし・家はこんなのじゃだめだ!という気持ちにとりつかれ、家の中を磨きまくりました。掃除をする事で気持ちを落ち着かせていました。後から知りましたが、掃除や片付けも1つのグリーフワークのようです。

  1人の時は、泣きたい時は泣いてました。夜、息子を寝かしつけた後も、ベッドの中でよく泣いてました。ただ、夫の前では泣けませんでした。出産の前後は夫の前でも泣いていましたが、火葬が終わったあと、夫はすぐに仕事に戻っているのに自分だけ休んで申し訳ないという気持ちや、泣いているのを見られるのは恥ずかしいという気持ちがあったように思います。大丈夫そうにふるまっていたのだと思います。


  つらかったのは、息子の保育園送り迎えで妊婦ママさんや小さな赤ちゃんを見ることでした。本当なら同級生になるはずだった子がたくさんいたんです。上も下も同級生。きっと楽しく遊んでいただろうな、と今でもその子たちに会うと思ってしまいます。

  お休み中、保育園の運動会があったのですが、息子の姿を見たかったので行かないという選択肢はなく、ママ友に会ったら何と言おうか?ということが悩みの種でした。妊娠を伝えたママ友は数人でしたが、直接話すと泣いてしまうと思ったため、事前にLINEで事実を伝えました。「死産」という言葉はつかわず、「いなくなった」とだけ伝えました。しかし、妊娠も死産も伝えていないママ友から「二人目なんだって?」と声をかけられる場面があり、おどおとしてしまいました。

  また、息子の先生には妊娠のことは伝えていなかったので、死産のことも伝えませんでした。ただ、息子が不安定になったり、妹を亡くしたことを保育園で言ってしまうこともあるかもしれないので、先生に「息子の様子が変だったら教えてほしい」、とだけ伝えました。「何かあったんですか?」と聞かれた途端に涙が出てしまい、逃げ帰ってしまいました。

  他には、休み中に葬儀に2回参列したことも辛かったです。1人目は大学時代の友人で、とても早いお別れでした。もう1人は夫側の親戚で、こちらも亡くなるには早いお別れでした。そこで、親戚の1人が妊娠しているのを見たのも辛かったし、娘の火葬の時に着た喪服を着ることもつらかったです。お骨あげなんて、、もう無の境地でした。完全に思考回路がストップしていました。


  休み中でよかったことは、上の子としっかりと向き合えたことです。仕事をしているとどうしても時間がなくてバタバタガミガミしちゃうけれど、目を見て話をきいたり、一緒に日が暮れるまで遊んだり、そういうことができたのは救いでした。長男には本当に助けられました。これも娘がくれた、大切な時間です。ちなみに、長男には死産であったことを私からは直接は言っておらず、夫からでした。私の入院中に「赤ちゃんはお月さまになったよ」と話したことを、後から聞きました。

  復職に向けたリハビリとして、人と会うこともしました。仲良し同期女子、会社の後輩、元上司などと。でもどれも疲れてしまい、娘の話はできませんでした。

  また子供がほしい、という気持ちには割とすぐなりました。そして、死産した意味をひたすら探していました。自分を納得させるためです。そのメッセージを受け止め、体現していくことが、償いだと思うからです。


  グリーフワークとしてしたことを挙げてみると、以下のようなことです。

・名前をつけた
・娘へのお花を飾るようになった
・残せたものを整理した(エコー写真を飾る、ヘソの緒、手形足形、母子手帳、健診記録、エコー写真)
・夫へ手紙を書いた
・日記を書いた(インスタグラムには書けない本当のリアルな描写や宣告から出産までの記憶を遡って)
・インスタグラムで天使ママアカウントを作った
・家族でキャンプをした(娘のエコーを持って)
・風疹ワクチンを打った(娘がおしえてくれたこと。私に抗体がない)
・月をみあげるようになった
・なるべく普通の生活をした
・趣味の登山をした(運動で気持ちがすっきりした)
・喪中葉書をだした
・音楽を聞いた(ヘビロテは、花束を君に、と愛のカタチ)
・家の片付け、掃除をした
・本を読んだ



9.職場復帰する際に考えたこと、感じたことを教えてください。

  復帰の時は、社内でどこまで事実が伝わっているかわからなかったため、どのような顔で出社すればよいのか不安でした。初日は自分の席に座っているのもとても違和感がありました。2ヶ月だけど、とても長く離れていた感じで、その間にいろいろ変わってしまったのではないかという気持ちでした。でも、変わったのは自分で、会社側はなにも変わっていないんですよね。

  復職後、自分の部署のメンバーには、1人ひとり面談で、自分の口から事実を伝えました。特に若い女子もいたので、自分の経験が少しでも役に立てばという思いからです。

  最初の1週間は馴染めませんでした。流れている時間、スピードも違い、違和感でいっぱいでした。通勤電車も満員電車に乗れなくて各駅でゆっくり心を戦闘モードに切り替えていく感じでした。打ち合わせも頭に入ってこない、仕事をいただいてもうれしくない、やることも忘れてしまう、自分がいつかばっくれてしまうのではないかという不安もありました。そんな中、マネージャーとしてやっていくのが怖かったです。知って欲しかったです。そんな気持ちを。


産休中に読んだ本


《後編》に続く

iKizuku

働く天使ママコミュニティ【イキヅク】 ペリネイタルロス(赤ちゃんとのお別れ) を経験した働く女性 =「働く天使ママ」のサポートを通じて 思いやりの心が息づく社会をめざします

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